大自然の中で息をすること

昨年冬に長かった放浪生活に別れを告げ、都会の暮らしに戻った。なぜならこのまま惰性で続けるにはあまりに厳しい状況だったし、自分の中にいる“世間的に見て普通である自分”からの圧力に負けたからだ。好きなことに携わるアルバイトも見つけ、趣味のイベントに足を伸ばし、時には新しい出会いに胸を躍らせ、やっぱり都会の生活も悪くないな、なんて、思っていた。いや、多分、身体の声に耳を塞ぎ、頭の声ばかり拾っていたのだ、無意識のうちに。そんなこんなを続けるうちに、緩やかに体調不良に悩まされる日々が始まり、仕事も休みがちになり、ある日を境に住まいにトラブルが勃発。いわゆる香害というやつだ。マンションの通路から窓からあらゆる場所から柔軟剤のような、めまいのするような強烈な人工香料が毎日、吹き込んでくるようになった。まともに換気もできず、四六時中漂う毒ガスのような空気に、脱ケミカル生活に慣れた身体は悲鳴をあげ、精神は次第に病み、夏前にはほとんどノイローゼに近くなってしまい、一時避難としてとある人里離れた山奥で働くことにした。私はもはや死に体、笑うこともなくなっていたし、怒り以外の感情も失っていた。駆け込むように飛び込んだ山奥で、大自然に抱かれた暮らしが始まり、死にかけていた私の心身は徐々に回復していった。脱力するくらいに優しく、暖かく、ユニークな人々に囲まれた、手付かずの自然が残る里山での生活は、ほとんど廃人のようだった私の身体に、新鮮な空気や酸素や血液を巡らせるのに充分すぎるほどの日々だった。大自然の中で命のリズムに従って生きること。雨や太陽や緑の匂いが感じられる場所。深呼吸できる空気。それこそが私を生かす血液であり、生命の原点なのだと、ようやく本当の意味で理解したのだと思う。田舎もなく、自然が何なのかも知らずに育った人間の、長い長い回り道の果てに。