必要な時、必要な人に、必然的に

必要な時に、必要な人に、必然的に出会うのって、なんの法則なんだろうな。

大自然の中で息をすること

昨年冬に長かった放浪生活に別れを告げ、都会の暮らしに戻った。なぜならこのまま惰性で続けるにはあまりに厳しい状況だったし、自分の中にいる“世間的に見て普通である自分”からの圧力に負けたからだ。好きなことに携わるアルバイトも見つけ、趣味のイベントに足を伸ばし、時には新しい出会いに胸を躍らせ、やっぱり都会の生活も悪くないな、なんて、思っていた。いや、多分、身体の声に耳を塞ぎ、頭の声ばかり拾っていたのだ、無意識のうちに。そんなこんなを続けるうちに、緩やかに体調不良に悩まされる日々が始まり、仕事も休みがちになり、ある日を境に住まいにトラブルが勃発。いわゆる香害というやつだ。マンションの通路から窓からあらゆる場所から柔軟剤のような、めまいのするような強烈な人工香料が毎日、吹き込んでくるようになった。まともに換気もできず、四六時中漂う毒ガスのような空気に、脱ケミカル生活に慣れた身体は悲鳴をあげ、精神は次第に病み、夏前にはほとんどノイローゼに近くなってしまい、一時避難としてとある人里離れた山奥で働くことにした。私はもはや死に体、笑うこともなくなっていたし、怒り以外の感情も失っていた。駆け込むように飛び込んだ山奥で、大自然に抱かれた暮らしが始まり、死にかけていた私の心身は徐々に回復していった。脱力するくらいに優しく、暖かく、ユニークな人々に囲まれた、手付かずの自然が残る里山での生活は、ほとんど廃人のようだった私の身体に、新鮮な空気や酸素や血液を巡らせるのに充分すぎるほどの日々だった。大自然の中で命のリズムに従って生きること。雨や太陽や緑の匂いが感じられる場所。深呼吸できる空気。それこそが私を生かす血液であり、生命の原点なのだと、ようやく本当の意味で理解したのだと思う。田舎もなく、自然が何なのかも知らずに育った人間の、長い長い回り道の果てに。

やらせテロだよ全員集合

またやらせテロ勃発。

またISIS(笑)

Manchester terror fakeで調べたら出てくる出てくる、このテロコント劇場がfakeである証拠、ありえない疑惑の数々。

テレビとかいう洗脳バカゾンビ装置はとうの昔に捨てたが、世間はまたアンチイスラム風潮に沸くのでしょう。

メディアの存在意義って何?


インチキまみれ

メディアも人間も何もかもインチキまみれで吐き気すら催してしまう。この国は完全に狂ってる…と感じ始めてから、政治、企業の裏側、世界情勢やら日本の隠された歴史、陰謀論やらオカルトやら本からネットから情報を漁りまくっていた時期もありました。色んなことを知れば知るほど混乱し、真実はまたも闇の彼方へ、掴んでも掴んでもすり抜けて行く砂のようで、もうそんな情熱も消え失せてきた今日この頃。それにしても最近の神社には神様がいなくて、悪いものが集まってる場所があるらしく、今年某神社にお参りした後にしばらく精神的におかしくなったことを思い出して戦慄が走った昨日の深夜。いろいろと鈍いやつほど生きやすいのかもね、今の世界って。電車内スマホ中毒のzombieたちの気持ち悪さは異常。


色即是空すべては幻

特定の宗教は持っていないけれど、仏陀の教えには共鳴する部分がある。

なぜなら色即是空、究極的には全ては無(空)だ、と説いているからだ。

そう、この世は幻想。

自分という存在も宇宙に漂う塵みたいなもん。

ただ生まれたから生きてる(在る)だで、生きる理由とか意味なんて無いと思ってる。 

思春期からの厨二病をこじらせ続けて数十年、生きる意味は何なのか、なぜ生まれたのか、ひたすら考え続けてきた。

死にたい、死にたい、と思って色々やってみたけど結局死ねなかった。


生きる意味が見つからないから死にたがった。

生まれた意味を見つけたくてもがき続けた。

 

人間てのは意味のないものに意味づけを、名前のないものに名前をつけたがる生き物らしい。


少なくとも他人様からのいいね!欲求がベースにある生き方は嫌だなあ…


冷たい春の雨の夜です。



 




這い上がるか、死ぬか

長い長い寒い冬もようやく終わりに近づき、少しだけ暗闇から這い上がってきたこの頃。まだまだトンネルから抜け出せずにいるけど、春間近の暖かな陽射しが少しだけ背中を押してくれるようだ。太陽は全ての生き物を満遍なく照らしてくれる。

落ちるところまで堕ちたら、這い上がるか、そのままくたばるかの2択。

這い上がる方を選ぶことができる気力が、まだ残っていて良かった。


生まれた場所で咲きなさい、って素敵な言葉だ。

ここではない何処かにいつも憧れている私という小さい人間。

咲いた場所で精一杯命を全うしていく植物たち。


そのままでいいよ、と言われた時の嬉しさを思い出す。

普通であろうとし続けた代償

「普通」の人生を諦めた人間の回想。

親は小学生の頃に離婚。

人間の屑のような父親だった。

母親には持ち家があったし、難しい資格を取り男並みに稼いでいたから貧乏ではなかった。欲しいものが買ってもらえなかった記憶はない。

私はとにかく学校が嫌いだった。閉塞感しかなかった。退屈の極み。

小学校では脱走魔。

中学はある事件をきっかけにほとんど行かず、高校も途中で嫌になりギリギリ、おまけで卒業したようなものだ。親に勧められた大学にも興味がなかった。とにかく同世代の集団に放り込まれるのが嫌だったらしい。勉強も嫌いだし。正社員も1度で懲りた。専門学校も2回くらい入っては辞めた。引きこもりも経験した。友達がいなくなってネットに逃げた。よく今まで生きてこれたなぁと不思議に思う。こんな私にも世間や親が定義する普通の人生がいつか訪れると思ってた。

週5日8時間勤務土日休み。満員電車で通勤。資格と自分磨き。結婚。貯蓄。年金で暮らす老後。

それが自分をじわじわと絞め殺す見えない縄であり鎖であるとも知らずに。

I was a dreamerだな、まったく。

普通の人生という訳のわからない妄想と、知らぬ間に押し付けられた普通という常識に囚われ続けていた代償は、あまりにも大きい。

1度として自分の人生を生きて来なかった哀しさよ。何の希望も持てない人生。苦しみと後悔の航海の途中、果てしない暗闇の中、途方に暮れては立ち止まり、無情にもひたすら流れてゆく時間。

こんな私にもいつか光が見える日が来るのだろうか。

相変わらず何の希望もない日々。


生きるのが辛い。

死ぬ勇気もない。